日本の教育は"授業以外"が多すぎる…部活に掃除当番、行事の山で「学校=友達」になってしまう弊害 | ニコニコニュース
※本稿は、鶴見済『人間関係を半分降りる 気楽なつながりの作り方』(筑摩書房)の一部を再編集したものです。
■なぜ大勢の写真はうらやましく思えるのか
十人二十人という大勢でワーッと盛り上がっている写真。知り合いがそれをSNSにアップしているのを見れば、「ああうらやましいな」と思うだろう。
数人でならよく人と会っていたとしても、この「大勢でワーッ」にはかなわない。その交際だけでは足りないような、どこか負けているような、寂しい気がしてしまう。
本来広くつきあうか、少人数が好きかという、人づきあいのタイプの違いに過ぎないはずなのに。ああいうものは、なぜそれほど心に迫ってくるのだろう?
ハッキリ言えば、人間は仲間の数が多いほうが強い。
これはどうしても言えることだ。近所を歩いていて、学校帰りの子どもが道端で大勢で盛り上がっていることがよくある。
仮にそれが小学生であっても、そのそばを歩いて通り過ぎるのは少し怖い。何か冷やかしの言葉を飛ばされたりしないかと警戒してしまう。実際にそうされたことが何度もあるので。
けれどもこちらに数人でも仲間がいたら、もう怖くない。海外旅行で危なげな街を見物する時など、ひとりでいるのと複数でいるのとでは、まったく気分が違う。
あれは本当に不思議なものだ。
■野生の世界では数が多いほうが強い
人間には鋭い牙もなければ、イノシシのように速く走れる足もない。もともと自然界で、他の獣のような強い存在ではなかった。だから生き延びるためには、集団になる必要があった。
こうした遺伝子が生き残ったので、今も集団に入っていたい欲求がある。これが進化心理学という分野からの説明だ。
確かにある局面では、今でも人数が多いほうが強いと言えるのだろう。SNSなどで誰かと言い合いになった時は、加勢してくれる人がひとりでも多いほど力は格段に強くなる。
さらにSNSではフォロワーや友達の数が、はっきりと表示されている。それが多ければ多いほどいいような気がますますしてきてしまう。
けれどもここは野生の世界ではないのだから、友人の数が多いほど何でもメリットが大きいとは言えない。
大勢でワーッとなっている人たちを見ると負けた気がしてしまうのは、我々の古い脳がそう叫んでいるかららしい。
■世界的にも友だちが多い日本の子ども
そもそも仲のいい友人は、何人くらいいるのが普通なのだろう?
日本の我々が想定する必要な友人の数は、少し多めに設定されているように思う。「友だち百人できるかな」で有名な「一年生になったら」は、今でも幼稚園の卒園式で歌われる定番の曲なのだそうだ。
ある国際アンケートで仲のいい友人の数を聞いてみたら、日本の学校に在学している人では平均9.6人もいた。これは先進7か国のなかでも、しかもフルタイム労働者、アルバイトなど様々な立場の人の場合と比べても、飛びぬけて多い数字だった。
ちなみに「学校に通う意義」を聞くと、「友だちとの友情をはぐくむ」が日本では群を抜いて世界一多かった。他の国で多かったのは「知識を身につける」だったのに(※1)。
日本の学校とはつまり、勉強よりも友だちのためにある場所なのだ。
それが「大勢でワーッ」に対する我々の感覚に影響していることは、十分にあり得る。
■人間関係の訓練をしている日本の学校
なぜ日本では「学校=友だち」になってしまうのか。それには理由がある。
親しい友だちかどうかは、ある程度顔を合わせる時間や回数で決まってしまうものだ。
その後の人生に比べれば学校時代は、ずいぶんたくさんの人間が、よかれ悪しかれ強く心に焼きついていた。
まず授業以外に中学、高校では部活動がある。運動会や文化祭、合唱コンクール、遠足、修学旅行といった年中行事がある。クラスには、掃除当番、給食当番があり、班、係などの日々の活動がある。
こんなに人と一緒に何かやっていたら、近く感じる人が増えるのは当たり前のことだ。
けれども授業でもないこうした活動は、考えてみれば奇妙だ。これらは“特別活動”と呼ばれていて、世界でも珍しい活動なのだ。「日本式教育」「海外では一般的に行われていない」と教育関係者は自画自賛している。
あるドイツ人の女性と話す機会があったので、そちらには部活はあるのかと聞いてみた。彼女によれば部活はなく、放課後になったらみんな帰るそうだ。それだけのことにすっかり感心したのを憶えている。毎日の印象がどれだけ違うことだろう。
文科省が発表している特別活動の目標をネットで見てみると、「望ましい人間関係を形成する」と何度も何度も書かれていてうんざりしてしまった。
我々は学校で、人間関係の訓練をさせられていたのだった。
放課後どころか、場合によっては土日、授業前の朝まで練習をしていたら、学校にいる時間が長すぎて、半分寄宿制の学校に入っているようなものだ。もちろんそこには、しつけの意味もあるだろう。
自分が開いている「不適応者の居場所」には、いつも30~40人ほどの人が集まる。ちょうどひとクラス分くらいの人数だ。この集まりで何か共同作業でも頻繁にやれば、もっとたくさんの人と近くなれるだろう。
けれども近すぎるがゆえの摩擦も同時に増えていく。そうまでして何かをやったほうがいいとは思えない。
■大勢の世界から逃げ出す子どもたち
今日本では、通信制の高校が何かと注目を集める。学校の数は急激に伸びていて、生徒数も増えている。通信制では週一日程度の登校日以外は、自宅で勉強するのだ。
また、家庭で独自に勉強をするホームスクーリングをしている子どもも増えていると言われる。ホームスクーリングは日本では正式には認められていないけれども、アメリカ、イギリス、カナダなどでは教育として公認されている。
またフリースクールに通う子どもや、不登校の子どものための居場所も増えている。
こうした動向を見ると、それ見ろと思ってしまう。
大勢でワーッと騒いでいる世界から逃げたい子どももたくさんいたのだ。
「大勢でワーッ」という写真を見て、「ああうらやましいな」と思う気持ちはいつまでもなくならないだろう。自分などこの年齢になっても、しかも自分でもそこそこ大きな集まりをやっているのに、やはりそう思うのだから呆れてしまう。
だからと言って、そのためだけに友だちの数を増やそうとしたり、わざわざ集まって集合写真を撮って、SNSにあげたりするのはやめにしたい。
なぜなら、そういうことをするのは美しくないから。単に自分の美意識からそう思う。
※1「世界青年意識調査」第8回(2008年)、第9回(2013年)、内閣府
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フリーライター
1964年、東京都生まれ。東京大学文学部社会学科卒。複数の会社に勤務したが、90年代初めにフリーライターに。生きづらさの問題を追い続けてきた。精神科通院は10代から。つながりづくりの場「不適応者の居場所」を主宰。著書に『0円で生きる』『完全自殺マニュアル』『脱資本主義宣言』『人格改造マニュアル』『檻のなかのダンス』『無気力製造工場』などがある。
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(出典 news.nicovideo.jp)